2012年9月23日日曜日

山本周五郎の小説より

「足軽奉公」より
「・・・この風車というものは竹の親串と、軸と、留める豆粒と紙車で出来ている。けれども、こうして風に当てて廻るのは紙の車だけさ、人もこの廻るところしか見やしない、親串を褒める者もなし、軸がいいとか、豆の粒がよく揃ったとか云う者もない、つまり紙の車ひとつを廻すために、人の眼にもつかない物が三つもある。しかもこの三つの内どの一つが欠けても風車には成らない。また串が紙車になりたがり、豆粒が軸になりたがりでは、てんでんばらばらで風車ひとつ満足に廻らなくなる。・・・世の中も同じようなものだ、身分の上下があり職業にも善し悪しがある、けれどもなに一つ無くてよいものはないのさ、お奉行さまが要れば牢番も要る、米屋も桶屋も、棒手振も紙屑買いも、みんなそれぞれに必要な職だ。・・・」

目新しい話ではないが、この小説の発表が昭和20年1月ということで、第2次大戦敗戦濃厚の中での言葉だけに、重みがある。

そして、こういう教育を受けた人たちが、戦後の経済成長を支えたのであろう。

いま退潮傾向の日本に必要なのはこの考え方なのかもしれない。でも今の高校生にはわからないだろうな。・・・

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